宇喜多直家伝説-恐るべき策略家、梟雄(きょうゆう)ではない-

岡山が誇る名将・宇喜多直家(うきたなおいえ)のご紹介です。 

宇喜多直家と言えば、戦国時代の“梟雄(きょうゆう)”として有名かと思います。
(梟雄:残忍で勇猛であること、荒々しくて強いこと)
はたまた、名将と言われてもピンとこない方もいらっしゃるかもしれません。 

宇喜多直家を知っている方もそうでない方も、宇喜多直家の魅力を探る旅へ、どうぞご一緒ください! 

 宇喜多直家とはどんな人物?

わしは宇喜多直家と申す。 
享楽2(1529)年に岡山県瀬戸内市にある砥石城にて生まれた。 
祖父は能家(よしいえ)、父は興家(おきいえ)という。歴とした武士の家系である。 
父は武士の器ではなかったか、わしは小さい頃から天性のものを持っていたとされておる。

すくすくと育っていたが、天文3(1534)年、祖父・能家が襲われた。わしは5歳であった。 
当時、備前の国を治めておった浦上宗景(うらがみむねかげ)を祖父・能家と島村盛実(しまむらもりざね)で支えておった。だが、険悪になっていた島村に離反の疑いをかけられ、島村は奇襲をかけてきたのである。 
祖父から、「直家、お前には武士の才がある。お前は生きるために逃げるのだ。どうか宇喜多の名を復興させよ」と言われ、父と共に逃がしてもらった。 

そこから、壮絶な子ども時代を経て、岡山を治める戦国大名へとのし上がっていく。全ては「宇喜多家復興」のため。 

今では”斎藤道三(さいとうどうさん)”、”松永久秀(まつながひさひで)”と共に戦国三大梟雄と言われておる。 

“梟雄“と言われておるが、果たしてそうなのか、皆様にどうぞ考えてもらいたい。 

宇喜多直家が活躍した時代は?

直家が初めて出陣したのが天文13(1544)年、わずか15歳の時でした。時代は室町時代末期です。15歳の初陣にも関わらず、勝利を上げ、乙子城の城主となりました。 
全盛期は30〜40歳代。時代は織田信長、豊臣秀吉が有名な安土桃山時代です。 
主家の浦上宗景氏への下克上を行い、まさに戦国の世を駆け抜けました。

宇喜多直家は恐るべき策略家 

宇喜多直家の初陣 

直家の初陣はわずか15歳、天文12(1543)年の時でした。赤松晴政(あかまつはるまさ)氏との戦いでした。
赤松氏は15歳の子供だと見くびりましたが、直家は槍を真正面から突き出し、敵の右翼目掛けて突き進んでいきました。真正面から柄の長い槍を振り回すと馬の首が邪魔になるため、左側をとれば良いと考えたのです。
そして相手の敵将を倒したのみで引きさがりました。
これ以上目立ち過ぎてはいけない、少ない家臣に怪我をさせてはいけない、疲れを溜めさせてはいけないと考えたためです。 
若干15歳で勝利をあげ、今後の立ち位置、家臣の状態までも考慮しています。

そして、褒美こそもらえませんでしたが、武勇伝は家中に知れ、直家を侮るような陰口は無くなったそうです。 

乙子城の城主に-君臣の団結を大切にした直家- 

そして翌年、天文13(1544)年、直家15歳の時に、功績が認められ、海賊を追い払うため、乙子城の城主に命じられました。 
乙子城の南部には細川氏、北部には松田氏の勢力が伸びており、海賊だけではなく、敵中に張り出した半島のような形でした。 
乙子城へ移る際、かつての宇喜多家の家臣を集めました。長船又三郎(おさふねまたさぶろう)、岡平内(おかへいない)、富川平右衛門(とがわへいえもん)ら、名前の知られた者たちが直家の元へ集まってきました。そして彼らが乙子城へ詰めていた兵をうまく使い、海賊の襲来を防ぎ、細川氏や松田氏の兵を追い散らし、見事乙子城を維持しました。功績として、初めて、乙子城の周囲に1500貫の土地をもらいました。 

直家の名前が上がるたびに、宇喜多家を去っていった家臣たちが、直家を訪れてきたそうです。その際にも、「少禄であるため、従前のようには扱えない。それでもよければ来るが良い」と、受け入れていました。 
ですが、そうなってくると、食べることに困ってきます。考えたのが、開墾です。しかし、すぐに作物が育つわけではありません。海賊の本拠や松田氏、細川氏の領地へ攻め入りましたが、十分には集められませんでした。
そこで「3日に一度くらい、喰わずとも死なぬ」と、主君である直家が先導し、家中揃って絶食をしました。そのことが君臣の団結を一層強くしたそうです。 

家臣を決して切り捨てるわけではなく、どのようにすれば守れるか。自らが姿勢を示し、直家にとって何を大切にしていたのかが伝わってきます。 

4年間もの間「返り忠」を勧める策

乙子城の周辺が落ち着くと、備中との国境が怪しくなってきました。砥石城を与えられていた分家の浮田国定(うきたくにさだ)氏が、浦上宗景氏を見限って、備中戦国大名三村家親(みむらいえちか)氏に内通したのです。 
激怒した浦上宗景氏は直家へ浮田氏を討つよう命じました。 

天文14(1545)年、16歳の直家はほぼ全軍を持って、砥石城へと攻めかかりました。
自身が育った城、宇喜多家再興の悲願が目の前にあり気合が入るのも当然です。
しかし、待ち構えていた兵たちに迎撃され、激しい応酬の元、一旦は兵を引き上げることに。
次は直家の乙子城が攻められ・・・両者の争いは一進一退を繰り返し、4年の月日が流れました。 

天文18(1549)年の春、直家(20歳)は最後の決戦と決め、全兵力を率いて砥石城へ夜襲をかけました。
この4年の間、直家は砥石城を力攻めしていただけではありませんでした。
旧宇喜多家臣たちの寝返りを策していたのです。
祖父能家(よしいえ)の孫の直家に親しみを覚える者もいたのです。そこへ直家は目をつけ、策を練っていたのです。
味方に裏切られてはどうしようもありません。
直家は見事砥石城を取り戻したのです。

ところが、4年間何もしてこなかった島村氏が、砥石城は身代の軽い者ではまた狙われるため、自分に任せてもらいたいと言い出しました。
直家は我慢できませんでしたが、奈良部城、新庄山城を与えられ、不満をグッと飲み込みました。
奈良部城は交通の要所であり重要な拠点でした。新庄山城は有数の穀倉地帯でした。
この2つの城が連携すればそう簡単には落とせないと、直家は考えたのでした。 

宇喜多家再興のためのブレない信念とやり抜く行動力 

天文20(1551)年、直家(22歳)は浦上宗景氏の命により、沼亀山城主中山信正(なかやまのぶまさ)氏の娘を嫁にもらいました。浦上宗景氏は、直家を中山氏の娘と結婚させることで、宿敵三村氏を討つ時間を稼いだのです。 

永禄2(1559)年、直家(30歳)はとうとう島村氏と中山氏を討つように命じられました。
この際、「勝った場合には砥石城と沼亀城をもらいたい」と、先に褒美を求めました。
そして、中山氏は自分が討つので、島村氏は宗景氏が討つように求めました。
正当な理由を述べ、上司である宗景氏にこの頃から進言していたのです。 

まず始めに行ったのは、舅である中山氏のお城近くで狩りをすることでした。狩りの許可をもらい、城の大手門とは離れた対岸へ仮小屋を建てました。
そして狩りを行い、獲物を得ては、中山氏を小屋へ招いて饗応したのです。
そして、「離れた場所へと毎回大回りをしてもらうのは大層申し訳ない。裏からここへ船を用意したい」とお願いしました。
とても小さな船で戦などには使えないようなものでした。
婿へ気を許した中山氏は、ある日自分のお城へ直家を招きました。
この日を決戦だとした直家は、選び抜いた家臣を小屋へ、その他の大軍を少し離れた場所へと待機させることにしました。自分は少しの家臣のみを連れ、城へと入っていきました。
そして、一通り宴を楽しんだ後、そろそろ休むと席を立った中山氏の背後へ、いきなり直家が襲いかかったのです。 
突然の婿殿の豹変に、中山氏側は何の応戦もできません。
直家の笛の合図で、船で裏から渡って大軍が押し寄せました。 

それを聞いた浦上宗景氏が動き、島村氏を襲いかかりました。
島村氏は何とか逃げ延び、味方の中山氏のところへやって来ましたが、直家がいることに驚きました。
「なぜお前が?」「私は婿なので、いてもおかしくはないでしょう。」と、とうとう仇敵であった島村氏を倒しました。

何年もかけ、相手を信用させ、目的を達成する。現代社会においては、梟雄と言われるやり方かもしれませんが、見事な策、ブレない信念とやり抜く行動力はさすがだと思います。 

宇喜多直家の幼少時代 

子供思いの父、治世算勘な宇喜多興家 

直家は砥石城ですくすく育っていました。誰もが認める武士の才能があり、幼い頃から優秀でした。 
そして5歳の時に、祖父能家(よしいえ)の砥石城が襲われました。
当時、備前の国を治めていた浦上宗景(うらがみむねかげ)氏を祖父・能家と島村盛実(しまむらもりざね)氏で支えていました。
しかし、険悪になっていた島村氏に離反の疑いをかけられ、島村氏は奇襲をかけてきたのでした。 

直家の父は興家(おきいえ)と言います。
興家は残念ながら武士の器ではありませんでした。
そのため、「私も一緒に最後まで戦います」と言い張ったのですが、能家に、「お前は直家を連れて逃げろ。直家はいずれ宇喜多を復興させることができるのだ」と言われ、息子と二人で逃げることとなりました。 

能家は二人を逃し、敵の前で自害しました。 
能家は頭が良く、勇敢で、人の気持ちが分かる人だったため、皆から慕われていたそうです。 

逃げた興家と直家は、追手の先を読み、港に行くことにしました。ここにはたくさんの人が出入りするため、たくさん噂も聞こえてくると考えたのです。 
お寺で寝泊まりをし、噂を探っていたところ、探りすぎたため、宇喜多の者とバレそうになったのです。 

島村氏はというと、砥石城を攻めた後、浦上宗景氏と話をしました。浦上氏は分家の浮田氏に砥石城をやり、事を丸く治めるということにしました。 

よって、直家の敵は島村氏と浮田氏と浦上宗景氏となりました。 

そして、直家たちは居場所がバレそうになったため、場所を変えました。食べる物もなく、6歳の直家はお腹がとても減っていました。 
ですが、武士というプライドが邪魔をし、働けません。
とうとう興家は物乞いを始めました。 

ある日、興家が「父さんがもらってくるから待っておけ」と出かけて行きました。そうして待っていると、父はおにぎりを一つ持って帰ってきてくれたのです。
直家はとても嬉しくなり、全て食べてしまいました。そして食べ終わった後に、父の分まで食べてしまったのではないかと、気付いたのです。
「父は先に食べてきたからお前が全部食べていいのだ」と興家は言いました。 
その後も何度か続いた際、直家は父上を怪しんでしまいました。「実はもっと食べているのではないか」と。
後をつけていくと、なんと興家は全く食べずに大切に持って帰っていたのです。 

直家は自分を恥じ、改めて宇喜多家復興を思ったのでした。

両海和尚と豪商阿部善定氏を師匠に得る

ところが、そうこうしている内に、無理が祟って、とうとう興家は倒れてしまいました。 
そして、最後の手段として、西大寺にいる乳母を頼ることにしたのです。 

砥石城が落ちたとき、乳母は出家して西大寺にいました。 
西大寺という場所はとても広く、力も強かったため、どの人たちも手出しできない場所でした。そこで直家親子は一時の安心を得ることができました。 

まずは体力を回復させました。
そして次に、直家には学を付けさせるべきだと、1人の僧侶を紹介してもらいました。名を両海と言いました。 

その人はある大名に仕えていましたが、そのお殿様はある程度の力を持つと、公家に憧れを持つようになり、蹴鞠やら歌やらを始めたそうです。そして公家の真似事をしていると農民たちの反感を買い、一揆を起こされて終わってしまったそうです。自分は農民として働けない、違うところへ仕えるのも疲れた。残されたのは出家だったと。できる範囲で勉強や剣術を教えてくれました。とても厳しい訓練でしたが、ものすごく鍛えられました。色々と教えてもらいました。 

ですが、そうやって長居をしていると、宇喜多がここにいるという噂が何処かから流されました。危ないため、またまた逃げることとなります。そして、その師匠が備前福岡にいる阿部善定氏という人を教えてくれ、そこを頼ることとなりました。 
福岡は、ものすごく栄えており、商家がズラリ!活気がありとても驚きました!阿部氏を尋ねると誰もが知っている豪商でした。とても丁重に扱ってくれ、ありがたいことにそこでお世話になることとなりました。そして阿部氏の一人娘を世話役としてつけてくれました。 

直家はここで暮らす中で、「商いを学びたい」と言い出しました。なぜかと問われ「商いを学んだ方が今後に役立つからである。今後の戦は金の多寡で決まる。そう両海師が教えてくれました」と。阿部善定氏は直家の根性を認め、庄兵衛という番頭へつけてくれました。直家は色々学びました。ものの動き、値付け、客への対応、奉公人の遣い方を学びました。 

直家が学んでいるうちに、父興家は、阿部善定氏の一人娘と良い仲になり結婚することになりました。そして直家はまだ小さかったのですが、家を追い出されてしまいました。
そのうちに弟が2人できましたが、物乞いの時の心労がたたり、父興家は体調を崩して死んでしまいました。直家は、継母とはソリが合いませんでしたが、弟たちのことはとても可愛がりました。 

武士として旅立つ 

宇喜多家の当主となった直家は、15歳になるのを待たずに仮元服の儀を行いました。そして、阿部家を出ることにしました。阿部善定氏は弥吉という人を家臣につけてくれました。家臣を1人付けて、武士として旅立つことになりました。 

乳母が浦上宗景氏のところで奥様のお世話をしてくれていたため、浦上のいる天神山城へ向かいました。「宇喜多能家の孫である」とはっきりと伝えて。 

滅んだとはいえ宇喜多家の孫です。浦上家の注目を浴びました。けれども、直家は一つも気にせず、「まずは成果をあげることである。成果をあげれば悪評はそのうち勝手に消えるものだ」と言い、頑張りました。 

幼い直家が経験したものは、今では計り知れないほどの苦難だったと思います。
けれども、それを苦難とせず、全てをチャンスと捉え、目的のために奮闘する。
やはり賢く、勇敢であったのだなと思います。 

宇喜多直家の戦ったゆかりの地